今日のゆめじょ

どうしようもなく夢見るオタクの低脳ハッピーブログ

推しを推すために退職した話

退職した。新卒3年目を迎えるこの4月に退職した。元々好きで選んだ仕事ではなく、ただただ「早く卒論に集中してえ」「推しに貢げるだけのお給与があるならそれを支えに多分やっていける、バイトだってそうだった」という、浪速のスピードスターもびっくりの俊敏さと阿呆さで単に最初に内定をもらっただけの企業に入社した。

正確には医療機関なので接客ではないが、正直来る患者来る患者の機嫌を取りさらに上司の機嫌を取り、その日の担当医の機嫌を取ることに奔走していたのだからほぼ接客業をしていたと言っていい。機嫌を取る、というか怒らせないように終始ニコニコして、小言を喰らえば徹頭徹尾「申し訳ありません」の言葉が口から出るばかりだった。AIの方がよほど感情がある。

ただ大病院に勤めていたわけではないので、休みが取りやすいことだけはまだ良かった。端的に言うと、サボろうと思えばサボれた。

忘れもしない1年目の春。2週間の研修を終え配属先で機嫌を取ることたった3週間目で、私は仕事をサボった。新人にありがちな不満だろうが、自分についた教育係の暴言とパワハラに耐えられなくなったのだ。

舐めてんじゃねえよと言われるだろうが言ってやる、入社日からマジでこの仕事無理だ、と直感で思っていた。行きたくなさが高校のマラソン大会よりも遥かにすごかった。

今日のところは給料はいらないから休みが欲しい。そう思ってサボることにした。

「熱があるので病院へ行きます」

体を折り曲げ苦しそうな声を演出し、電話口で主任へそう告げた。

電話を切った後、私は何を思ったかその足でバスに乗り込み、神戸異人館へ向かった。

異人館は、というか神戸は良かった。ゴールデンウイーク明けで人影はまばらで、歩く道歩く道お洒落だったり、どこか寂れていたり、探検気分で坂を登り横道に入り、たまに推しのARカメラで写真を撮った。少し元気が出てきた。異人館前に佇むボランティアおじいちゃんに写真も撮ってもらえた。ただ微妙なところで小心者なので、夕方ごろには地元に戻ってかかりつけの内科に行き、そこまで痛くもない腹を痛いと訴え、薬と領収書だけはもらって帰った。

社会人のサボりのいいところは、サボっていると傍目には分からないところだ。学生と違って制服を着ているわけではないので、単に休日を楽しみに来ているようにしか見えない。心の奥では罪悪感ももちろん持ち合わせてはいたが、それより何より「今日一日は職場に居なくて良い(サボっているので決して良くはない)」気持ちが強かったし、幸せだった。

一方で社会人のサボりでよくないところは、罪悪感はとりあえず置いておいて、欠勤届あるいは有給届を出さねばならない面倒臭さと周囲への謝罪である。

届出は仕方ない。社会人だから、小学生のように親に連絡帳に一筆書いてもらうだとか、休む当日の電話一本で済ませるわけには経理上いかない。届出書の事由欄に「体調不良」と書き、当日出勤していた上司らに頭を下げるのもまあ、当然だと思う。

それでも「大丈夫?」と聞かれるたび「(貴方の暴言のせいで)大丈夫(じゃなかったし今日もほぼ大丈夫じゃない)です!」と答えるのは至極辛かった。

それでも何とか、本当に不思議だが、私はその後3〜4ヶ月に1度、耐えきれず休むことはあれど勤続1年目を迎えることに成功してしまった。変わったことといえば同期が1人辞めたこと、先輩含め若手職員2人が病んだこと、そして私の体重が5キロ減ったことくらいであった。体重が減るくらいにしか私の仕事は言うほど辛くなかったと言うべきなのか、それとも体重が減る程度には強いストレスを感じていたと言うべきなのかは分からない。まあ身体が軽くなったのは結果的に良かった。オタクは精神的にも物理的にもフットワークが軽いに越したことはない。

恐らく何とか勤続できたのはこのブログのタイトルにある通り、私がオタクであったからだ。上司に理不尽に怒られようと、意味のわからん患者にイチャモンつけられようと、管轄外の後輩のミスを私の監督不行届だと他の職員の前で罵倒されようと、推しがいたから耐えられた。

2年目に入ってからはますます情緒がおかしい日が続き、行きの電車で泣き、昼休みは食事を摂らずひたすら眠り、帰りの電車で泣き、帰ってからは死ぬほど食べた(そして3キロ程体重は戻った)。

そして1年目の時はさらりと休むことができたのに、だんだん休むことを告げる電話と翌出勤日の手続きの面倒さが脳裏をよぎり、休むことが格段に減った。今思えば、もうこの頃からずっと病んでいた。

そんな限界な日々でも、推しのいるゲームにログインしない日はなかったし、ガチャはお給金が事切れる覚悟で推しが出るまで毎回引いた。

推しのいるホーム画面を延々と見続け、待望の休日が来ればPCを開き語彙力ナシナシ自己満2次創作を必死に打ち込む。

私は推しであろうと缶バッジやアクキー等は買わない(痛バを持つ勇気と若さがない)のだが、アクスタとパッと見てオタクだとわかりづらい日用品がすきなので、そういった商品が発売されると一も二もなくとりあえず買った。

とにかく自分のすきだというものに惜しみなくお金を使いたかった。そうすることでストレスを解消していたつもりだったし、会社で受けた理不尽を帳消しにしたかった。

それまで某Tubeで無料視聴しかしていなかった某吸血鬼の乙女シチュCDに手を出したのも、そうした欲求が根底にあったからだ。

初めてのボーナスは推しのイメージにぴったりだと勝手に解釈したwiccaの腕時計とニンテンドースイッチ、そして推しのガチャとだいすきなアクスタを連れたひとり旅に溶かした。

虚しさを感じたこともあった。

もちろんスイッチという、私にとっては約10数年ぶりの据え置きハードはずっとやりたかったおとげ〜との出会いを生み出し、そのまま数個の沼にドボンと浸からせていただくという人生最高の出会いを得た。アイデアファクトリー様には感謝の念に絶えない。

ただ、「仕事で受けたフラストレーションを自分の趣味で発散している」ことに関してはどこか悲しさを覚えはじめていた。

間違ってはいない。私たちは少なくとも生きるために働き、大抵の理不尽に耐え、お金を使っている。趣味だってその「生きるため」に間違いなく含まれる。

それでも上司に怒鳴られ、ベテラン職員なら口頭で注意して終わる(そもそも注意されないこともあった)はずのミスを始末書扱いにされる日々は辛いオブ辛いものだった。目の前で報告書をビリビリに破られたこともある。

そんな悔しさ、悲しさ、辛さを基盤にして得たお給金で推しを手に入れている、その過程を思うと何故か苦しくなった。

コロナ禍の続く秋頃のことだった。医療機関であるため休むことは許されず、毎日マスクは替えること、検温することを義務付けられて数ヶ月目の検温の時。

それまで平熱は36度前半と比較的低温だった私が、37度6分という微熱を記録した。

すぐに早退を命じられ、病院へ行くよう促された。

しかし病院ではコロナどころがどこも悪くない、強いて言うなら胃に微妙な腫れがあるから急性胃腸炎の病名をつけておきます、と言われた。私自身、確かに特に体調に問題を感じてはいなかった。

それでも37度6分以上、弊社の出勤停止基準となる微熱の日々はそこから1週間近く続いた。PCR検査も受けたが陰性だった。

コロナでなければ今までの休みは有給あるいは欠勤扱いになってしまう。そう聞かされた私は、翌月に控えた推しの誕生日に取っていた有給維持のため、ひたすら解熱剤を飲んで何とか翌週末には復帰した。

それでも平熱は37度2〜4分と微妙なラインを維持したままで、年末に至った。

年末年始はいつも忙しいが、昨年はとびきり忙しかった。

コロナのせい、というより1人しかいない私の同期が急病のため入院、彼女の分の案件は当然のように私に回ってきた。仕事の量だけならまだしも、何故か私の仕事に対する罵倒の量も倍になってストレスがとんでもねえことになっていた。

とんでもねえと自覚できたのは、欠かさずログインだけはしていたソシャゲにログイン出来なくなった、推しを見ようという気力が湧かなくなった、見たとしても、幸せより完璧な推しに対して劣等感を強く感じるようになったからだ。

何のために日々働き罵倒され機嫌を取っているのかマジで分からなくなってきていた。

決定打となったのは仕事納めの日に上司に「こんなミスするとかありえん、マジで殺そうかと思った」という趣旨のことを後輩の前で言われたことだと思う。

似たようなことを言われたことはあったが、ここまでハッキリ脅迫に近い言葉は初めてだった。ミスしたことを弁解するつもりはない。それでも言っていいことと悪いことがあると、その時言うべきだった。

もう少し私が元気なら、そう言って怒れていたかもしれない。

電車でキモいおっさんに触られて脛を蹴り飛ばしたり鳩尾に肘鉄を喰らわせたり、バス停で平気で順番抜かしをしてくるオバチャンに「順番くらい守れよ」とボヤくことができるくらいには私は自尊心のある人間だったからだ。

でもその日は刷り込まれた「申し訳ございません」の言葉を繰り返すしか私にはできなかった。

帰ってからはとりあえず、お風呂場に駆け込んでずっと泣いていた。人生最悪の年末だった。

年明け。申し訳程度の休みで出勤初日はなんとか耐えた。しかし退勤後、なぜか復帰初日に起きた同期のミスに関してまた私の監督不行届だという説教をされた。後輩の監督不行届はまだ分かるが同期の監督不行届とは何だ?????世界七不思議に追加すべき案件である。

キレた。

怒って泣いて喚いたわけではなく、プツッと感情の糸が切れた感覚だった。もうダメじゃない?何言っても何しても私ダメじゃん、となった。

翌日、出勤はしたが何故か涙が止まらなくなり、先輩に促されてそのまま帰った。

翌々日、出勤で使うバスの中で自分が今いる場所が分からなくなった。半分パニックで会社に電話して、そのまま帰るよう気遣われた。

そのまた翌日、雪がちらつく天候なのにコートを着ることも忘れて家を出た。母が気づいてくれたおかげで、そして「出勤する途中で死ぬんじゃないかと心配になってしまう」と言われて休んだ。

珍しいケースだと思うが、私は自分から心療内科に行きたい、と言った。

運良く近くの診療所で翌日予約が取れた。重度のうつ状態だった。医師から休職命令が出た。

休職初期は、推しについて考えることが完全になくなる日が続いた。

オタクではない人にとってはピンとこないかもしれないが、とんでもないことである。生きる理由の大半を占めて、支えてくれたものに興味が湧かなくなる。じゃあ何を考えるかというとガチで死について考えていた。実行に移すことはなかったが、それに近いことはした。

あれだけ「推しにお金を使いたい、だから働く!だから生きる!」と豪語していたはずが、いつの間にか理由に行動が追いつけなくなった。

食べることでなんとか発散していたはずが、食欲も驚くほど落ちて休職開始から結果8キロ痩せた。

仕事に行かなくなったからといって、良くなるわけではないのだと身をもって実感した。

それでも回復の道を教えてくれたのはやはり推しだった。私はうつを自覚してから、人の笑い声、人混み、電車が本当に無理だったのだが、ある日ツイッターで推しジャンルのイベントが告知された。

特急電車で20分ほど。職場に行くよりも短い距離だったが、その頃の私は家から徒歩15分圏内を歩き回るだけで精一杯だった。

それでもそのジャンルのイベントに参加したことがなかったということもあり、久しぶりにどこかに行きたい、という気持ちが芽生えた。そのおかげで、電車に乗れるようになった。

一度推しに触れることができるようになると、自然と別の推しに対してもこれまでに近い、純粋にすきだという気持ちで見ることができるようになった。

完全にエゴだが、嬉しくて泣いた。

推しに対するスタンスと同じように、オタクの友人とも少し距離を置いていた。コロナのせいで1年以上会えていない、だいすきなオタクと前から約束していた通話をキャンセルしてもらったり、気持ちを整理し何度も推敲はした上で、絶縁される覚悟で手書きの重い手紙も書いた。それに対する彼女の優しい返事と、気遣いのプレゼントに嬉しくてまた泣いた。

冒頭で結論を出しているので分かりきったことであろうが、私はそうこうして何とか元気になりかけてきていて、仕事を辞める決心をした。

休んだって元の職場に戻ればぶり返す気しかしなかったし、大切な友人の言葉に救われ、推しを推すために自分が不健康になる必要はないと気づいたからだ。

私は推しが本当にすきだ。恋愛感情的にすきな子もいれば、おばあちゃんのようにただ見守りたい、孫のように愛している子もいる。どういうスタンスにせよ、素敵な推しには素敵な人と素敵な人生を歩んでほしい、そう本気で思っている。

でもそれには私自身が素敵に生きれるようにならないと意味がない。どんなに推しを愛していたって、私はマザーテレサガンジーではない。所詮私は私が幸せじゃないと、推しのことを気にかけることもできない、そんな自己中心的で平凡な人間なのだ。約2年の社会人生活で漸く分かった。遅い。けど、気づけたのだからそれでいい。

推しを推すために、という他己的でこの上なく利己的な理由のために私は仕事を辞めた。退職金の少なさにちょっと絶望してるが、推しを推す未来のための時間がこれから増えるのだと思えば御の字くらいにはいただけている。

推し、今日も生きてくれていてありがとう。サービス終了のお知らせを感じさせない新規絵をありがとう。

精一杯私は私を幸せにするから、その幸せを基盤に得たお金を感謝の気持ちを込めてお布施できるように頑張るから、これからもどうか、目いっぱい愛させて下さい。

推しの一周忌(正確には二周忌)がくる

自殺した瞬間に推しにガチ恋していたと脳が認定した哀れなオタクが、初めて推しの没日を迎えようとしている。

わたしの久々のガチ恋相手の九字院偲は(恐らく)2018年7月14日に主人公の目の前で脳天撃ち抜いて自殺しました。アニメなら来週で一周忌、小説なら恐らく二周忌。

周忌があやふやなのは、原作小説にて推しが死んだのは7月14日としか明言されていないから。

小説ならば7月15日が議員選挙投票日とされているため、15日が日曜日だと仮定し逆算すれば14日が土曜になる年は直近で2018年。原作の初版が2016年だから、まあ妥当な予測だと思っている。

そういうわけで、わたしが昨年あれほどガチ恋を拗らせたアニメ版九字院偲は一周忌、原作通りの世界線での九字院偲は二周忌をもうすぐ迎えることとなるわけだ。

推しが死んだことを目の当たりにしてから半年と少し、思えば自ジャンルの数が増えたり、普通に仕事が忙しくなってきたり、だんだんと死んだ推しのことで取り憑かれたように虚無感を背負い込むことはなくなっていった。喪服を意識して黒い服を着ることはなくなったし、推しを思い出して突然泣きたくなることもなくなってきた。

立ち直りの速さには定評があると自己評価しているわたしだが、半年という決して長くはない期間であまりにスッと切り替えができたことにかえって戸惑う自分がいる。あれほど「わたしはこの人がすきだ、なんで死んでしまったんだろう…」と職場でも休憩中にボロボロ涙を零していたのに、いつの間にか別の推しの新規カードを回収したりイベントをこなすことでそういう時間がなくなった。

ただ、じゃあもう死んだ推しへのガチ恋感情が衰えたのかというとそんなことはない。死んだ推しへのクソデカ感情は今でも心の底から溢れ出てしまい、生きて幸せな今を過ごしている推しのいる世界線をせめてわたしが作り出したい…そう思って没個性夢主との自己満足ユメショ(ss集)を半年前からポツポツ書き連ね、気づけば100ページを優に超えてしまっていた。まだまだ書きたいifがあるのでオフセ本へ変貌するのはいつのことだか分からない。

わたしにとっては、これを書いている時、間違いなく推しは生きていて、幸せな時間を過ごしているのだと幻覚をキメることができるのでとんでもなく心が安らぐ。正気に戻ってイマジナリー後追い自殺をしかけるのも毎度のことなのだが。

それでもやっぱり、推しにガチ恋をしている事実がわたしの心を幾分か救ってくれていることに違いはない。

推しの没日が初めて迫る今、わたしは推しの死に対してどう向き合えば良いのかという疑問があとを絶たない。今まで通り地獄のユメショを書き加え、イマジナリー後追い自殺をし、スマホにある推しの遺影に手を合わせれば良いのだろうか、それとも喪服を着て推しの好きだったシロップまみれのパンケーキとガムシロが3つ、ミルクが6つ入ったアイスティーを口にすれば良いのだろうか。

絶対に言い切れることは、推しの死をわたしはわたしなりに乗り越え、でもまだズルズルと引きずり、時に思い出さないとわたしの心がついていかないということだ。

多分長いわたしの人生、その中の数ヶ月という期間で心にすみつくほど鮮烈な印象を残した推しのことを、わたしはきっと一生すきだと思うし、忘れない。

とりあえず来週の今日までに、あと数ページでも推しの幸せなifの世界線を増やせれば良いなと思う。ただの自己満足だけれど、推しが生きる世界がパラレルワールドにはあると思うだけで救われる。

所詮創作だけどね。

安らかに眠ってください、九字院偲。

自分主体の恋愛ができないオタクの話

 

「変わっている」とよく言われるが、誰かと一緒にいたいとか、自分のことをすきになってほしいとか思わない自分をあまり変だと思わないところが変わっているのかもしれない。

 

「すきな人のすきな人になりたい(恋愛友情問わず)」ことが当然のようにまかり通るのが不思議だ。 わたしは推しを愛していると心から言えるけど、推しと結婚したいというより推しが推しと同じくらい素敵な誰かと幸せになってくれたら何もいらないと思う。そろそろゆめじょ名乗るのやめたほうがいいと思う。まあこの前例外的に死んだ瞬間にガチ恋拗らせていたことに気づいた推しはいたけど、あれは稀有。おかげでまだ立ち直れてない。

 

自分に すきな人にすきになってもらえる価値がある という前提で世間の恋愛話は進んでいく(あるいは価値がないと分かっていながらもそのためにこういう自分になる、と努力を伴えば可能性があると思い至る)ことに驚いてしまう。驚いてしまうという時点で、「すきな人にすきになってもらいたいと思うのは変わってる」という自分の考えが普遍的なものだと勝手に思い込んでいたのだと気づいた。

 

きっとわたしは自分の本質に価値がないと思っていて、そうじゃない人は本質ではなくそれに付随して後付けされた自分の中の何かに価値がないと自信を持てないでいるんだと思う。本質的なものでないなら変えることができる。だからこそ努力するし自分をすきになってもらいたいと思えるのかもしれない。
逆に言えば本質は絶対的に変えられない、じゃあ本質とは何なのかと考えるとパッと出てくるのは見た目とか性格とかで、それは一般的に言えばまだ「変えられる」部類のものなのかもしれないが、世間一般の基準と私の求めるそれは違う。ありていに言えば理想が高すぎる。そして理想が高いと自覚する割にわたしは自己評価が恐らく低い。
夢女子として推しを想定したときには「頑張って見た目や性格を変えたところで完全には綺麗になんかなれない、綺麗な推しに見合うような自分なんかになれない」し、「根本が綺麗じゃないものはいくら塗り重ねていたって汚い」から結局ガチ恋なんてできなくなった。綺麗なものには綺麗なものを与えて眺めていたい。純真で真っすぐな存在と幸せになってほしい。

 リアルを想定したときも「完璧じゃない本質」を見たときその人を受け入れられなくなる。恋愛でありがちな、でも重要な点であろう「完璧じゃないところをひっくるめてすきになる」と言う感覚がわからない。生活感とか気を抜いた時の顔とか体臭とか癖とか、見られたくないしそれ以上に見たくない。わたしがすきなのは「完璧な姿を一生保ち続ける存在」なのだ。
 そして絶対にいないとわかっている上で、万が一そんな存在が現れたと仮定したとしても今度は「完璧じゃないわたし」を「完璧な人間」に見られることが耐えられない。そもそも「わたしに好意を寄せてくれる」時点で完璧ではなくなるのでやはりリアルでも恋愛はできない。
わたしが完璧でないことは明白なのでこの話は「自分主体の恋愛ができないのはわたしが完璧主義な非完璧人間だから」で帰結するのだが、じゃあわたしの思う推し=「完璧な存在」とはなんなのか、客観的に冷静に見て全人類が納得するような素質を持っているのかと問われると答えに詰まる。万人に好かれる存在なんていないからだ。それはきっと完璧じゃない。
それでも言わせてもらうと、確かに私の推しは世間一般的に見て完璧じゃないかもしれない。けれど欠点が決して汚点じゃない、とは主観で断言できる。


完璧じゃないその本質が完璧な私の推しを推しとして確立させている。欠点として認知される推しの性格が(容姿は言わずもがな整った部類に入っている前提で)わたしにとっては「不快=誰かに迷惑をかける」ようなものじゃないからだと思う。
わたしの推しの月岡紬の欠点は強いて言うなら「優柔不断」なところだがそれは「周囲の和を大切にしようとする意志」が働いている場面で発揮される。服部耀の欠点は「わかった上で言葉足らずで臆病」なところだ(と私は思っている)が、それは結局「大切な仲間を想うが故」なのだ。
まあこうしてそれっぽく書いてみたって、欠点が長所として塗り替えられているだけだと思われるだろうしわたしも実際そうだと分かっている。就活でよくある「あなたの短所は?」に対する模範解答みたいやな。 それでも頑なに彼らの欠点はわたしの定義する欠点ではない、と思い込むのはきっと不完全な部分が「完璧な本質を形作るうえで必要なもの」―完璧でない部分は、推しがわたしの推したるゆえん(本質)の発露だと裏付ける純粋な公式の設定があるからだ。

 


 わたしがフィクションという完全な虚構の世界に信頼を置いているのは、その純粋さが揺らがないからだと思う。キャラクターに今日の一般論でいう「悪」の側面があるのなら「こういう事情があったから」という理由付けが明確に提示されることが多い。
 主人公たちに憎しみを抱いて攻撃してくるのは主人公側の人間に裏切られたことがあるから、他人と関わらずに孤高に突き進むのは他人を信じることができなくなるようなトラウマを抱えているから……オタクはこういったタイプに弱いと思っているのだが(実際わたしも敵サイドの人間に弱い)、それは「彼/彼女の欠点は本質から生まれたものではない」という性善説を全面的に肯定してくれる。「なんとなく悪に染まった」人間の方が現実の世界には多いと思うのだが、そういう人間は正直信用ならない。それに対してフィクションの世界は手放しで本来なら知り得るはずのない推しのバックグラウンドを与えてくれる。公式から与えられるそれは推しの絶対的なアイデンティティを愛する正当な理由を与えてくれているのと同義だ。

 

 

 これだけたらたら述べてきたが結局わたしは、他者から見られて後ろめたいような気持でなにかを愛することが怖いだけなのだと思う。欠点を受け入れて愛せば「欠点があるのに」、完璧な存在を愛せば「自分は完璧じゃないのに」、なにかを愛する不完全な自分に視線が当たることを極端に恐れている。
それでも愛することはやめられないから不完全な自分に欠けているものをもった完璧(だと自分が思う)な存在に憧れつつも自分にスポットライトの当たることのない「綺麗ななにかと同じように綺麗ななにか」を愛でる位置に甘んじているのだろう。

わたしは推しを愛している。でもわたしはわたしのことを愛していないとまではいかずとも好ましくは思えない。自分にはない綺麗で完璧な存在は、わたしへの他者からの視線を遮りつつ羨望の愛を注ぐ居場所にもなるという、この上なく安全な避難所としてわたしを守ってくれているのかもしれない。

推しが自殺した

推しが自殺した。

何を言っているか明確だと思うがわたしには何が起こっているのか分からなかった。

事の経緯を簡潔に述べれば、2019冬アニメの中で特に好んで観ていたうちのひとつ、「バビロン」という作品の中での推しが7話目にして自殺した。推しの名を九字院偲と言います。

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いかがですか?綺麗な顔してますよね、生きてますよこの時は。まあこのあと死ぬんですけど……………

とにかく彼は顔が抜群によろしくて21世紀絶対スーツを着てキメてほしいランキング上位に食い込む(私界隈)ほどスタイルが良くて多摩東警察署警部補を務める成人男性です。髪いつも後ろで無造作に結ってるけど下ろしたらそれはもう国立美術館が黙ってないほど美しいんだろうな………まあその姿を見せてくれる前に死んだんですけど………

話としてはかなり政治的で1話目から複雑だし主役級の子も死ぬしであらすじは省きますけど正直いつこのアニメを観れば精神状態が比較的安定するのかわからないほど辛い。わたしは1話目を休日の朝8時に観て後悔した。でもリアタイしても深夜寝れずに病みそうだし、昼観ても午後からの業務に支障をきたしそう。極論精神を休ませる環境がある時と場合じゃないと立ち直れない。

それでも推しは主人公(東京地検特捜部、正崎善)と「犯人捕まえましょうや」ってなんかええ声(cv.櫻井孝宏)で奮闘するわけですよ…そんなん応援するしかない、というか君がいないと正崎だって挫折しかねなかったじゃん、正崎の心の支えが死ぬとかそんなんあかんやん、、??????なのに死ぬ。正崎の目の前で自殺する。なんで、、??????

なんで、とか言ってたって仕方ない。死んだんだから。それでも最期に「伝えなければ」って自らの脚に発砲することで正気を保ちながら正崎のもとへ進む九字院偲、最高に九字院だったし何より捜査班に入るよう呼ばれた時も「正崎さん友達少なそうだから(来てあげたんですよ)」って言ってたくせに死ぬ直前「正崎さんは私(アタシ、かもしれん)の数少ない友達ですから(警告しにきたんですよ)」なんて正崎の肩に顔埋めて言うのは本当にずるい。

死ぬ直前じゃなかったらキャー‼︎とかアホみたいに興奮しただろうけどこんな場面でそんなこと言われたらこちらとしては泣くしかない。涙腺の準備をするしかもう手立てがない。

脚撃ったくらいなんだから死ぬわけないだろう、と正崎は励ますつもりで言ったしわたしもそうだよ正崎よく言った!!!!!って一瞬希望を持ったけどその後例のヤバヤバ台詞を吐き出した後に九字院手元にあった拳銃で自ら脳天打ち抜いちゃった。

あの時の推しの顔一生忘れられない。

でもなぜか推しが死んだところを観たとき、心が一瞬なくなったような感覚になって、つらいとか信じたくないとかいう感情より先に「あぁ九字院ってどれくらい女の人抱いてきたんだろうな」とか「くじせい(九字院×正崎)ってアリでは???」とかどうでもよくないけどこの状況では二の次くらいのオタクの感情が湧いてた。

それからちょっとしてからなぜか心がハチャメチャ重くなって泣いた。死を目の当たりにした時は「推し死んだ…???」くらいだったのに、時間の経過とともに涙は出てくるし気づいたら壁にぶつかってるし親にまで「どうしたの…?」と心配された。どうしたんだろうねマジで。わたしが聞きたい。いや何より九字院偲、お前がどうした???

今まで推しが死んだことはあった。でもそれは不慮の事故であって、避けようと思っても避けられないもので、今回の九字院はほんの数分前まで犯罪を許さないと奮闘していた。そんな彼が曲世愛の一言によって自殺してしまったということが辛い。ヤバい。

語彙がないから辛いヤバいしか言えないけど、なんというか推しがたった数秒接触した女に感化されてしまったという脆さと事実がきっと衝撃的すぎたんだと思う。

そして何よりちょっとびっくりしたのは、「九字院に抱かれたかったな…その前に死んじゃったな九字院…」って思ってしまったことだった。

わたしは5〜6年前くらいまで自己投影型ゆめじょキメてたけど最近はもっぱら男女cpかblがすきで、自分を推しと絡ませるのは解釈違いになりつつあった。もちろんたまに推しと付き合ったら〜とか思うことはあるけど本気で抱かれてぇ〜ッッッ!とかはそんな…思わんかったのに思っちゃったんだよななんで???

そこでやっと「あ〜わたし九字院偲にガチ恋してたんだな…」って気づいた、気づいて余計に悲しくなった。明日からまた仕事なのにどうしたらいい???忌引きって使えるのかな

なんせ自己投影型ゆめじょは推しと付き合ってるので(個人差があります)、言うてみればわたしは彼氏が死んじゃった女なんですよ、心身共に休ませて欲しいマジで。

とりあえずスマホで遺影作成して手を合わせました。

明日は喪服のつもりで全身黒ずくめにするつもりだ。

それくらいしか今のわたしには思いつかない。

まあ抱かれてぇな〜!!??っていうのは多分死ぬ直前に九字院が「男ならお分かりでしょう、セッ…のあの感じですよ」って曲世愛のことを評してたこと引き摺ってるんだと思うんだけど、

①九字院偲がセッ…とか言った

②当たり前だけどdtじゃなかった

この2点を引き出したのが曲世愛だという事実にショックを受けたんだろうなと思う。

わたしは推しにはできるだけ綺麗なものに囲まれて幸せでいて欲しいタイプなので、九字院偲が曲世愛という人間に汚されていくのが怖かったんだろうな…

明日からどれくらい時間が経ったら推しが自殺した、という事実を消化できるようになるのかわたしには皆目見当がつかない。

週1で観ていただけのアニメに、ワンクールの真ん中で死んでしまった推しに、自分がどう向き合うのか、忘れていくのか怖くて仕方ない。

九字院偲の最期は意味あるものだったと思いたい、例え曲世愛に惑わされて、狂ったまま自殺したのだとしても数少ない友達の正崎のために生きたんだと思いたい…………

世間話ができないオタクの話

世間話ができない。

職場で休憩が被った時、案件が思ったより早く済んで上司も自分も手持ち無沙汰な時。きっと向こうは気にかけてくれているのもあるのだろう、無難な話を振ってくる。休みの日はどうしていたのか、趣味は何か、所謂世間話である。そして私はこの手の話に上手に乗り切れたことがない。

会話が続かない。

休みの日何してた?と聞かれれば無難に寝ていました、とか適当に買い物してました、と私は返すのだが、続く相手の言葉(疲れてたんですね、何買ったんですか、など)に返事(そうなんですよ〜ずっと眠くて、夏服ないので服買いました)をしてしまうと基本的にそこで会話は終了してしまう。

さらにそこから話を掘り下げてくださる優しい方もいるが、私はそんなに話を面白おかしく脚色できる人間ではないのでせいぜいあと2,3言続いてしまえば会話はゴールイン。望みも望まれもしない無駄な時間。ぼ〜っと今日の夕食とか、推しの新しい夏服とか考えていた方がよっぽど精神衛生上良いと思う。

休憩室で他部署の話が耳に入ることがある。彼彼女らの話を参考に世間話のスキルを磨こうと向上心を燃やしたが、分かったのは彼彼女らの恋愛遍歴と思ってもいなさそうな相槌の応酬で会話が成り立っているという事実だけだった。

恋愛話はすごい。大抵の人はこの話で休憩時間を乗り切っている。彼氏と旅行に行った、好きでもない人に好かれて困っている、友人の恋人が浮気をしていた、不特定多数の人間がランチタイムを過ごしている場で驚くほど赤裸々に個人情報を垂れ流しそれを楽しむ感情がすごい。というかよくその限られた話題で毎日休憩時間を過ごせるなぁと感心してしまう。揶揄ではなく本心でそう思う。

もちろん世間話は恋愛以外にも冒頭に挙げた休日の過ごし方や趣味でも成り立つ。誰にでも趣味のひとつやふたつは大抵あるだろうから、それについて話せば良いのだが、話を振られて語った終いには「そちらはどういった趣味が?」と聞くのが通常の会話の基本だろうと思う。

「人は自分が聞かれたいことを相手にまず問う」と言うが心理的な観点からもそうなのだろう。

相手に話させればこちらは相槌を打てば良いのだから世間話は楽に成り立つはずなのだ。

私にはその「聞く」姿勢がないのだと思う。

相手の心情を察知する能力がないとは思わない。どちらかというとこう言って欲しいのだろうな、とかこうすれば喜ぶのだろうな、と想像できるタイプだ。

分かっているなら行動に移せば良いのに、面倒くさがって自分から相手に問おうとする気力が起きない。だからこそ私は世間話ができないのだ。

しかしオタクの話題になると、そういったことはなくなる。相手の推しの近況やイベントの話はいくらでも聞きたくなる。先週のアニメのこのシーンが良かった、欲しかった本が最高だった、推しがかわいい、いつまでも聞けるし布教されたい。

なぜなのか。

私は「相手のプライベートに踏み込むことを考えずに話せる」からだと思う。

推しの話をしている間、私たちの会話の中心は「会話の現場に存在しない」推しだ。推しのあれやこれやを思いつくままに発言し、妄想し、楽しみを共有する。そこに人によって異なる「(精神の)パーソナルスペース」はほとんどない。

趣味嗜好の違いによるパーソナルスペースはもちろんあるが(逆cp、解釈違いなど)、どこまで踏み込んでいいか分かりかねる個人の事情には一切触れることがない。

オタクの語源は「お宅(=よく知らない相手への無難な呼びかけ方」だと言われる(諸説あり)が、これこそ相手のプライベートを知らずとも趣味嗜好が同じなだけで人は仲良くなれるというオタクの本質を指しているのではないか。

悪口や愚痴、そこにはいない第三者の話題は時として異様に盛り上がる。それは会話の中心に良い意味でも悪い意味でも気を遣う必要のない存在が置かれているからだ。

推しの話を悪口や愚痴と同列に扱うつもりは毛頭ない。結局世間話ができないのは自分がオタクであるからではなく、「気を遣うのが面倒」だという自分の究極の怠惰にある。

それでもオタクの話の方が世間話より遥かに楽しい、と感じてしまうのは相手への気遣いの不要さと、悪口などとは違うポジティブでハッピーな感情の発露ができるからだと私が思い込んでいる以上どうしようもないのだと思う。

オタク最高!そう思う自分が非オタを「悪口やつまらない恋愛話くらいしか話すことがない」と見下してはいないか、明日の休憩室で自分がどう思うのか、少し暗い気持ちになった。

オタクが銃を下ろすとき

 

 長かった就職活動も終わり、あとは卒論を完成させるだけ…この間まで「推しって今17歳、高校生なんだ~!すっごい大人だなぁかっこいいなぁ」「私も早く高校生になって推しのことを〇〇先輩♡とか呼びた~い!」「推しの高校の制服、〇〇県のこの学校のとそっくりじゃん ここ志望校にしようかな」

…なんて寝ぼけた黒歴史を散々生み出してきた私だが、今では推しの年齢なんてとうに過ぎ、「もう〇〇くん(推し)をガチ恋対象になんて思えない、そんなの私に担える居場所じゃない、彼の幸せを祈るご近所おばさんになりたい…」かつて「私の人生を変えてくれた先輩」であった彼らを今度は私が「母性で見守りたい」という気持ちが日々高まってきている。

 

 話を冒頭に戻すと、私は別に就職なんてしたくない。

正直大学の勉強が好きで、本気で院で勉強するのもいいんじゃないかって今でも思う。

そもそも今やっている週3~4日のアルバイトですら私は嫌で、推しのガチャやイベントという存在がなければ働くなんて行為絶対に私はしないと思う。そう、私が今アルバイトをしてそれなりに(と信じたい)まともな日本語を操れて、プレゼント用のラッピングができて、当たり障りのない会話を初対面の人間とコミュニケーションが取れるようになったのはすべて「推しに貢ぎたい、推しのSSRカードが欲しい、半年後の自ジャンルの舞台に遠征したい」という、浪費と愛玩の対象あればこそなのだ。そういう意味で私は推しに人格形成(改善?)されたも同然なのかもしれない。

推しがいるから、はした金でも貢ぎたい。それによって私も幸せになりたい。これが私が就活を仕方なく実行した理由だ。

 

「別にアルバイトだけでも稼げるし、院に行ってバイトもして、で良かったんじゃないか」

 

こうアドバイスしてくれる人もいる。確かにその道は私にとってとても魅力的で、好きなことに重きを置けるんじゃないかって思う。だけど私の中のオタクの部分が、「それは違う」と叫ぶ。

私がオタクをしているジャンルは多数あるのだが、いま最も熱量をかけているジャンルはとても精力的だ。ゲーム、舞台、CD、イベント、コラボカフェ、それらにかこつけたグッズの数々…一日で複数の「お知らせ」が発表されることも珍しくない。そのたび「あっ!このグッズ予約しなきゃ」「コラボカフェの抽選申し込まなきゃ~」「舞台の日程でたからシフト考えとかないと」と頭がフル回転する。

その瞬間は「また新しい衣装を着た推しに出会える」「カフェ、どんな服を着ていこう」と楽しみでいっぱいになる。貯金とブドウ糖が足りなくなって頭痛もする。

でもこの痛みすら推しに起因するなんて…こんなに好きになれる何かがあって私は幸せだなぁと愛しくなる。

 

それと同時に、「私はいくつまでこんな風に、イベント事やコラボカフェ、舞台にライブ…公式が与えてくれるものを素直に享受していられるのだろうか」と怖くなる時がある。それは単に「コンテンツ終了のお知らせ」(打ってるだけで怖くなってきた)や「〇〇(自ジャンル)炎上」とかいうこちら側が受け手になることを指しているわけではなくて、「自分がこのまま年を重ねていっても、今の自分と同じくらい精力的に、気持ち的にイベント事に参加していけるのだろうか」という私個人の問題である。

 

体力的な面はもちろんだけれど、もっと端的に言うと「〇歳にもなって公の場でオタクをしていてもいいのか」という不安が襲ってきそうなのだ。

私自身は別に何歳になっても打ち込める、好きなことがある、というのは良いことだし素敵だと思う。というか、私はそういう大人になりたい。

 

けれども主要ファン層である若い人たちに囲まれて、同じようにうちわをもって、ペンライトを振って、グッズを買うために並んで…実際目にすると「あんな歳にもなって」と後ろ指をさされることは少なくない。

私だって行きたかったけれど外れてしまったコラボカフェで、「同行者募集」のツイートをしているツイ主さんが30↑と記載されていたらどんなに行きたくてもちょっと躊躇う。

「好きなことを年齢気にせずにやる」ことは必ずしも肯定されることではないのだ。

それは私の中で「公の目に触れない程度の」オタク的趣味はいくつになっても許容される(グッズの購入、DVDの鑑賞、ゲームのプレイ…)、舞台、イベント、ライブ、コラボカフェ…「自分以外のオタクや公的な目に触れるオタク的な活動」は許容されえないものなのだと感じているのだと思う。

 

きっと「いくつになっても~」なんて幻想の言葉が実現されるのはある程度TPOが必要で、私の中のオタクの部分が

「〇歳にもなって…なんて後ろ指さされる前の若いうちに、人の目に触れるオタク的な活動を思う存分楽しまなきゃいけない、そのためにはお金が要る!」

そう叫んでいたからこそ、月収7~8万、実際推しにつぎ込めるのは半分以下、の現在のバイト生活なんてやっていられなかったのだ。

 

その一方で、私が悩んでいたもう一つの選択肢・勉強はある意味便利なオタクコンテンツだ。いくつになっても勉強していることで後ろ指をさされることはない。

それならば若いという特権を使って自ジャンルに思いっきりお金をつぎ込んで、年を取ってから大々的なオタクは卒業しつつ地下に潜って勉強に打ち込めばサイコーに効率的で楽しい人生送れるんじゃない?

実際は学費とかいろいろまた大変なのだろうけど。

 

 

 

若さは武器だ。生首ラミネートや顔フェルトをぶら下げているオタクたちだって、揶揄されつつ目に見えて炎上しないのは彼ら彼女らが「若い」から「仕方ない」と解釈されるからであって、多分40も50も過ぎた中年オタクがやっていたら少なくとも奇異の目で見られるし話題になると思う。最近話題の「ぬいママ」だってアンチされる主な対象は「いい歳して~」と枕詞のつく年代の人ばかりだ。

 

若さという武器は多方面で幅のきく、いわば飛び道具ー銃のようなものなのかもしれない。その銃を世間の目を気にして下ろす日が、またはいつの間にか「持っている」気になっているだけで無くなっている、という日が私にも来るのだろう。

 

銃を下ろし、なくした後の私はどんな「銃後」のオタク人生を歩むのか。今のところ先述したような勉強への打ち込みを私は望んでいるが、未来はわからない。

 

ただ、大好きなものを「あんな(年齢の)人も好きなんだ…」という一ファンの存在からジャンル全体の印象を悪く言われてしまう原因にはなりたくない。

差別だ、とか、性格悪い、とか言われるかもしれない。でも実際人間の印象なんて見た目でほとんど決まる。武器を失った時点で、若さ溢れる銃、下手したら戦車という強さの前には敵わない。

 

 

堂々と炎上しそうなことをつらつら書いてきたが、実際は私自身この銃を下ろす日が怖い。現場に行けないなんて、イベントに行けないなんて、今に私には考えられない。

だからこそ私は今日も鏡を見て、(美しいとは絶対に言えないが)若さという武器を辛うじて所持していることに安堵し、舞台へ、イベントへ、ライブへ、コラボカフェへ足を運ぶのである。