今日のゆめじょ

どうしようもなく夢見るオタクの低脳ハッピーブログ

オタクが銃を下ろすとき

 

 長かった就職活動も終わり、あとは卒論を完成させるだけ…この間まで「推しって今17歳、高校生なんだ~!すっごい大人だなぁかっこいいなぁ」「私も早く高校生になって推しのことを〇〇先輩♡とか呼びた~い!」「推しの高校の制服、〇〇県のこの学校のとそっくりじゃん ここ志望校にしようかな」

…なんて寝ぼけた黒歴史を散々生み出してきた私だが、今では推しの年齢なんてとうに過ぎ、「もう〇〇くん(推し)をガチ恋対象になんて思えない、そんなの私に担える居場所じゃない、彼の幸せを祈るご近所おばさんになりたい…」かつて「私の人生を変えてくれた先輩」であった彼らを今度は私が「母性で見守りたい」という気持ちが日々高まってきている。

 

 話を冒頭に戻すと、私は別に就職なんてしたくない。

正直大学の勉強が好きで、本気で院で勉強するのもいいんじゃないかって今でも思う。

そもそも今やっている週3~4日のアルバイトですら私は嫌で、推しのガチャやイベントという存在がなければ働くなんて行為絶対に私はしないと思う。そう、私が今アルバイトをしてそれなりに(と信じたい)まともな日本語を操れて、プレゼント用のラッピングができて、当たり障りのない会話を初対面の人間とコミュニケーションが取れるようになったのはすべて「推しに貢ぎたい、推しのSSRカードが欲しい、半年後の自ジャンルの舞台に遠征したい」という、浪費と愛玩の対象あればこそなのだ。そういう意味で私は推しに人格形成(改善?)されたも同然なのかもしれない。

推しがいるから、はした金でも貢ぎたい。それによって私も幸せになりたい。これが私が就活を仕方なく実行した理由だ。

 

「別にアルバイトだけでも稼げるし、院に行ってバイトもして、で良かったんじゃないか」

 

こうアドバイスしてくれる人もいる。確かにその道は私にとってとても魅力的で、好きなことに重きを置けるんじゃないかって思う。だけど私の中のオタクの部分が、「それは違う」と叫ぶ。

私がオタクをしているジャンルは多数あるのだが、いま最も熱量をかけているジャンルはとても精力的だ。ゲーム、舞台、CD、イベント、コラボカフェ、それらにかこつけたグッズの数々…一日で複数の「お知らせ」が発表されることも珍しくない。そのたび「あっ!このグッズ予約しなきゃ」「コラボカフェの抽選申し込まなきゃ~」「舞台の日程でたからシフト考えとかないと」と頭がフル回転する。

その瞬間は「また新しい衣装を着た推しに出会える」「カフェ、どんな服を着ていこう」と楽しみでいっぱいになる。貯金とブドウ糖が足りなくなって頭痛もする。

でもこの痛みすら推しに起因するなんて…こんなに好きになれる何かがあって私は幸せだなぁと愛しくなる。

 

それと同時に、「私はいくつまでこんな風に、イベント事やコラボカフェ、舞台にライブ…公式が与えてくれるものを素直に享受していられるのだろうか」と怖くなる時がある。それは単に「コンテンツ終了のお知らせ」(打ってるだけで怖くなってきた)や「〇〇(自ジャンル)炎上」とかいうこちら側が受け手になることを指しているわけではなくて、「自分がこのまま年を重ねていっても、今の自分と同じくらい精力的に、気持ち的にイベント事に参加していけるのだろうか」という私個人の問題である。

 

体力的な面はもちろんだけれど、もっと端的に言うと「〇歳にもなって公の場でオタクをしていてもいいのか」という不安が襲ってきそうなのだ。

私自身は別に何歳になっても打ち込める、好きなことがある、というのは良いことだし素敵だと思う。というか、私はそういう大人になりたい。

 

けれども主要ファン層である若い人たちに囲まれて、同じようにうちわをもって、ペンライトを振って、グッズを買うために並んで…実際目にすると「あんな歳にもなって」と後ろ指をさされることは少なくない。

私だって行きたかったけれど外れてしまったコラボカフェで、「同行者募集」のツイートをしているツイ主さんが30↑と記載されていたらどんなに行きたくてもちょっと躊躇う。

「好きなことを年齢気にせずにやる」ことは必ずしも肯定されることではないのだ。

それは私の中で「公の目に触れない程度の」オタク的趣味はいくつになっても許容される(グッズの購入、DVDの鑑賞、ゲームのプレイ…)、舞台、イベント、ライブ、コラボカフェ…「自分以外のオタクや公的な目に触れるオタク的な活動」は許容されえないものなのだと感じているのだと思う。

 

きっと「いくつになっても~」なんて幻想の言葉が実現されるのはある程度TPOが必要で、私の中のオタクの部分が

「〇歳にもなって…なんて後ろ指さされる前の若いうちに、人の目に触れるオタク的な活動を思う存分楽しまなきゃいけない、そのためにはお金が要る!」

そう叫んでいたからこそ、月収7~8万、実際推しにつぎ込めるのは半分以下、の現在のバイト生活なんてやっていられなかったのだ。

 

その一方で、私が悩んでいたもう一つの選択肢・勉強はある意味便利なオタクコンテンツだ。いくつになっても勉強していることで後ろ指をさされることはない。

それならば若いという特権を使って自ジャンルに思いっきりお金をつぎ込んで、年を取ってから大々的なオタクは卒業しつつ地下に潜って勉強に打ち込めばサイコーに効率的で楽しい人生送れるんじゃない?

実際は学費とかいろいろまた大変なのだろうけど。

 

 

 

若さは武器だ。生首ラミネートや顔フェルトをぶら下げているオタクたちだって、揶揄されつつ目に見えて炎上しないのは彼ら彼女らが「若い」から「仕方ない」と解釈されるからであって、多分40も50も過ぎた中年オタクがやっていたら少なくとも奇異の目で見られるし話題になると思う。最近話題の「ぬいママ」だってアンチされる主な対象は「いい歳して~」と枕詞のつく年代の人ばかりだ。

 

若さという武器は多方面で幅のきく、いわば飛び道具ー銃のようなものなのかもしれない。その銃を世間の目を気にして下ろす日が、またはいつの間にか「持っている」気になっているだけで無くなっている、という日が私にも来るのだろう。

 

銃を下ろし、なくした後の私はどんな「銃後」のオタク人生を歩むのか。今のところ先述したような勉強への打ち込みを私は望んでいるが、未来はわからない。

 

ただ、大好きなものを「あんな(年齢の)人も好きなんだ…」という一ファンの存在からジャンル全体の印象を悪く言われてしまう原因にはなりたくない。

差別だ、とか、性格悪い、とか言われるかもしれない。でも実際人間の印象なんて見た目でほとんど決まる。武器を失った時点で、若さ溢れる銃、下手したら戦車という強さの前には敵わない。

 

 

堂々と炎上しそうなことをつらつら書いてきたが、実際は私自身この銃を下ろす日が怖い。現場に行けないなんて、イベントに行けないなんて、今に私には考えられない。

だからこそ私は今日も鏡を見て、(美しいとは絶対に言えないが)若さという武器を辛うじて所持していることに安堵し、舞台へ、イベントへ、ライブへ、コラボカフェへ足を運ぶのである。