今日のゆめじょ

どうしようもなく夢見るオタクの低脳ハッピーブログ

自分主体の恋愛ができないオタクの話

 

「変わっている」とよく言われるが、誰かと一緒にいたいとか、自分のことをすきになってほしいとか思わない自分をあまり変だと思わないところが変わっているのかもしれない。

 

「すきな人のすきな人になりたい(恋愛友情問わず)」ことが当然のようにまかり通るのが不思議だ。 わたしは推しを愛していると心から言えるけど、推しと結婚したいというより推しが推しと同じくらい素敵な誰かと幸せになってくれたら何もいらないと思う。そろそろゆめじょ名乗るのやめたほうがいいと思う。まあこの前例外的に死んだ瞬間にガチ恋拗らせていたことに気づいた推しはいたけど、あれは稀有。おかげでまだ立ち直れてない。

 

自分に すきな人にすきになってもらえる価値がある という前提で世間の恋愛話は進んでいく(あるいは価値がないと分かっていながらもそのためにこういう自分になる、と努力を伴えば可能性があると思い至る)ことに驚いてしまう。驚いてしまうという時点で、「すきな人にすきになってもらいたいと思うのは変わってる」という自分の考えが普遍的なものだと勝手に思い込んでいたのだと気づいた。

 

きっとわたしは自分の本質に価値がないと思っていて、そうじゃない人は本質ではなくそれに付随して後付けされた自分の中の何かに価値がないと自信を持てないでいるんだと思う。本質的なものでないなら変えることができる。だからこそ努力するし自分をすきになってもらいたいと思えるのかもしれない。
逆に言えば本質は絶対的に変えられない、じゃあ本質とは何なのかと考えるとパッと出てくるのは見た目とか性格とかで、それは一般的に言えばまだ「変えられる」部類のものなのかもしれないが、世間一般の基準と私の求めるそれは違う。ありていに言えば理想が高すぎる。そして理想が高いと自覚する割にわたしは自己評価が恐らく低い。
夢女子として推しを想定したときには「頑張って見た目や性格を変えたところで完全には綺麗になんかなれない、綺麗な推しに見合うような自分なんかになれない」し、「根本が綺麗じゃないものはいくら塗り重ねていたって汚い」から結局ガチ恋なんてできなくなった。綺麗なものには綺麗なものを与えて眺めていたい。純真で真っすぐな存在と幸せになってほしい。

 リアルを想定したときも「完璧じゃない本質」を見たときその人を受け入れられなくなる。恋愛でありがちな、でも重要な点であろう「完璧じゃないところをひっくるめてすきになる」と言う感覚がわからない。生活感とか気を抜いた時の顔とか体臭とか癖とか、見られたくないしそれ以上に見たくない。わたしがすきなのは「完璧な姿を一生保ち続ける存在」なのだ。
 そして絶対にいないとわかっている上で、万が一そんな存在が現れたと仮定したとしても今度は「完璧じゃないわたし」を「完璧な人間」に見られることが耐えられない。そもそも「わたしに好意を寄せてくれる」時点で完璧ではなくなるのでやはりリアルでも恋愛はできない。
わたしが完璧でないことは明白なのでこの話は「自分主体の恋愛ができないのはわたしが完璧主義な非完璧人間だから」で帰結するのだが、じゃあわたしの思う推し=「完璧な存在」とはなんなのか、客観的に冷静に見て全人類が納得するような素質を持っているのかと問われると答えに詰まる。万人に好かれる存在なんていないからだ。それはきっと完璧じゃない。
それでも言わせてもらうと、確かに私の推しは世間一般的に見て完璧じゃないかもしれない。けれど欠点が決して汚点じゃない、とは主観で断言できる。


完璧じゃないその本質が完璧な私の推しを推しとして確立させている。欠点として認知される推しの性格が(容姿は言わずもがな整った部類に入っている前提で)わたしにとっては「不快=誰かに迷惑をかける」ようなものじゃないからだと思う。
わたしの推しの月岡紬の欠点は強いて言うなら「優柔不断」なところだがそれは「周囲の和を大切にしようとする意志」が働いている場面で発揮される。服部耀の欠点は「わかった上で言葉足らずで臆病」なところだ(と私は思っている)が、それは結局「大切な仲間を想うが故」なのだ。
まあこうしてそれっぽく書いてみたって、欠点が長所として塗り替えられているだけだと思われるだろうしわたしも実際そうだと分かっている。就活でよくある「あなたの短所は?」に対する模範解答みたいやな。 それでも頑なに彼らの欠点はわたしの定義する欠点ではない、と思い込むのはきっと不完全な部分が「完璧な本質を形作るうえで必要なもの」―完璧でない部分は、推しがわたしの推したるゆえん(本質)の発露だと裏付ける純粋な公式の設定があるからだ。

 


 わたしがフィクションという完全な虚構の世界に信頼を置いているのは、その純粋さが揺らがないからだと思う。キャラクターに今日の一般論でいう「悪」の側面があるのなら「こういう事情があったから」という理由付けが明確に提示されることが多い。
 主人公たちに憎しみを抱いて攻撃してくるのは主人公側の人間に裏切られたことがあるから、他人と関わらずに孤高に突き進むのは他人を信じることができなくなるようなトラウマを抱えているから……オタクはこういったタイプに弱いと思っているのだが(実際わたしも敵サイドの人間に弱い)、それは「彼/彼女の欠点は本質から生まれたものではない」という性善説を全面的に肯定してくれる。「なんとなく悪に染まった」人間の方が現実の世界には多いと思うのだが、そういう人間は正直信用ならない。それに対してフィクションの世界は手放しで本来なら知り得るはずのない推しのバックグラウンドを与えてくれる。公式から与えられるそれは推しの絶対的なアイデンティティを愛する正当な理由を与えてくれているのと同義だ。

 

 

 これだけたらたら述べてきたが結局わたしは、他者から見られて後ろめたいような気持でなにかを愛することが怖いだけなのだと思う。欠点を受け入れて愛せば「欠点があるのに」、完璧な存在を愛せば「自分は完璧じゃないのに」、なにかを愛する不完全な自分に視線が当たることを極端に恐れている。
それでも愛することはやめられないから不完全な自分に欠けているものをもった完璧(だと自分が思う)な存在に憧れつつも自分にスポットライトの当たることのない「綺麗ななにかと同じように綺麗ななにか」を愛でる位置に甘んじているのだろう。

わたしは推しを愛している。でもわたしはわたしのことを愛していないとまではいかずとも好ましくは思えない。自分にはない綺麗で完璧な存在は、わたしへの他者からの視線を遮りつつ羨望の愛を注ぐ居場所にもなるという、この上なく安全な避難所としてわたしを守ってくれているのかもしれない。