今日のゆめじょ

どうしようもなく夢見るオタクの低脳ハッピーブログ

推しを推すために退職した話

退職した。新卒3年目を迎えるこの4月に退職した。元々好きで選んだ仕事ではなく、ただただ「早く卒論に集中してえ」「推しに貢げるだけのお給与があるならそれを支えに多分やっていける、バイトだってそうだった」という、浪速のスピードスターもびっくりの俊敏さと阿呆さで単に最初に内定をもらっただけの企業に入社した。

正確には医療機関なので接客ではないが、正直来る患者来る患者の機嫌を取りさらに上司の機嫌を取り、その日の担当医の機嫌を取ることに奔走していたのだからほぼ接客業をしていたと言っていい。機嫌を取る、というか怒らせないように終始ニコニコして、小言を喰らえば徹頭徹尾「申し訳ありません」の言葉が口から出るばかりだった。AIの方がよほど感情がある。

ただ大病院に勤めていたわけではないので、休みが取りやすいことだけはまだ良かった。端的に言うと、サボろうと思えばサボれた。

忘れもしない1年目の春。2週間の研修を終え配属先で機嫌を取ることたった3週間目で、私は仕事をサボった。新人にありがちな不満だろうが、自分についた教育係の暴言とパワハラに耐えられなくなったのだ。

舐めてんじゃねえよと言われるだろうが言ってやる、入社日からマジでこの仕事無理だ、と直感で思っていた。行きたくなさが高校のマラソン大会よりも遥かにすごかった。

今日のところは給料はいらないから休みが欲しい。そう思ってサボることにした。

「熱があるので病院へ行きます」

体を折り曲げ苦しそうな声を演出し、電話口で主任へそう告げた。

電話を切った後、私は何を思ったかその足でバスに乗り込み、神戸異人館へ向かった。

異人館は、というか神戸は良かった。ゴールデンウイーク明けで人影はまばらで、歩く道歩く道お洒落だったり、どこか寂れていたり、探検気分で坂を登り横道に入り、たまに推しのARカメラで写真を撮った。少し元気が出てきた。異人館前に佇むボランティアおじいちゃんに写真も撮ってもらえた。ただ微妙なところで小心者なので、夕方ごろには地元に戻ってかかりつけの内科に行き、そこまで痛くもない腹を痛いと訴え、薬と領収書だけはもらって帰った。

社会人のサボりのいいところは、サボっていると傍目には分からないところだ。学生と違って制服を着ているわけではないので、単に休日を楽しみに来ているようにしか見えない。心の奥では罪悪感ももちろん持ち合わせてはいたが、それより何より「今日一日は職場に居なくて良い(サボっているので決して良くはない)」気持ちが強かったし、幸せだった。

一方で社会人のサボりでよくないところは、罪悪感はとりあえず置いておいて、欠勤届あるいは有給届を出さねばならない面倒臭さと周囲への謝罪である。

届出は仕方ない。社会人だから、小学生のように親に連絡帳に一筆書いてもらうだとか、休む当日の電話一本で済ませるわけには経理上いかない。届出書の事由欄に「体調不良」と書き、当日出勤していた上司らに頭を下げるのもまあ、当然だと思う。

それでも「大丈夫?」と聞かれるたび「(貴方の暴言のせいで)大丈夫(じゃなかったし今日もほぼ大丈夫じゃない)です!」と答えるのは至極辛かった。

それでも何とか、本当に不思議だが、私はその後3〜4ヶ月に1度、耐えきれず休むことはあれど勤続1年目を迎えることに成功してしまった。変わったことといえば同期が1人辞めたこと、先輩含め若手職員2人が病んだこと、そして私の体重が5キロ減ったことくらいであった。体重が減るくらいにしか私の仕事は言うほど辛くなかったと言うべきなのか、それとも体重が減る程度には強いストレスを感じていたと言うべきなのかは分からない。まあ身体が軽くなったのは結果的に良かった。オタクは精神的にも物理的にもフットワークが軽いに越したことはない。

恐らく何とか勤続できたのはこのブログのタイトルにある通り、私がオタクであったからだ。上司に理不尽に怒られようと、意味のわからん患者にイチャモンつけられようと、管轄外の後輩のミスを私の監督不行届だと他の職員の前で罵倒されようと、推しがいたから耐えられた。

2年目に入ってからはますます情緒がおかしい日が続き、行きの電車で泣き、昼休みは食事を摂らずひたすら眠り、帰りの電車で泣き、帰ってからは死ぬほど食べた(そして3キロ程体重は戻った)。

そして1年目の時はさらりと休むことができたのに、だんだん休むことを告げる電話と翌出勤日の手続きの面倒さが脳裏をよぎり、休むことが格段に減った。今思えば、もうこの頃からずっと病んでいた。

そんな限界な日々でも、推しのいるゲームにログインしない日はなかったし、ガチャはお給金が事切れる覚悟で推しが出るまで毎回引いた。

推しのいるホーム画面を延々と見続け、待望の休日が来ればPCを開き語彙力ナシナシ自己満2次創作を必死に打ち込む。

私は推しであろうと缶バッジやアクキー等は買わない(痛バを持つ勇気と若さがない)のだが、アクスタとパッと見てオタクだとわかりづらい日用品がすきなので、そういった商品が発売されると一も二もなくとりあえず買った。

とにかく自分のすきだというものに惜しみなくお金を使いたかった。そうすることでストレスを解消していたつもりだったし、会社で受けた理不尽を帳消しにしたかった。

それまで某Tubeで無料視聴しかしていなかった某吸血鬼の乙女シチュCDに手を出したのも、そうした欲求が根底にあったからだ。

初めてのボーナスは推しのイメージにぴったりだと勝手に解釈したwiccaの腕時計とニンテンドースイッチ、そして推しのガチャとだいすきなアクスタを連れたひとり旅に溶かした。

虚しさを感じたこともあった。

もちろんスイッチという、私にとっては約10数年ぶりの据え置きハードはずっとやりたかったおとげ〜との出会いを生み出し、そのまま数個の沼にドボンと浸からせていただくという人生最高の出会いを得た。アイデアファクトリー様には感謝の念に絶えない。

ただ、「仕事で受けたフラストレーションを自分の趣味で発散している」ことに関してはどこか悲しさを覚えはじめていた。

間違ってはいない。私たちは少なくとも生きるために働き、大抵の理不尽に耐え、お金を使っている。趣味だってその「生きるため」に間違いなく含まれる。

それでも上司に怒鳴られ、ベテラン職員なら口頭で注意して終わる(そもそも注意されないこともあった)はずのミスを始末書扱いにされる日々は辛いオブ辛いものだった。目の前で報告書をビリビリに破られたこともある。

そんな悔しさ、悲しさ、辛さを基盤にして得たお給金で推しを手に入れている、その過程を思うと何故か苦しくなった。

コロナ禍の続く秋頃のことだった。医療機関であるため休むことは許されず、毎日マスクは替えること、検温することを義務付けられて数ヶ月目の検温の時。

それまで平熱は36度前半と比較的低温だった私が、37度6分という微熱を記録した。

すぐに早退を命じられ、病院へ行くよう促された。

しかし病院ではコロナどころがどこも悪くない、強いて言うなら胃に微妙な腫れがあるから急性胃腸炎の病名をつけておきます、と言われた。私自身、確かに特に体調に問題を感じてはいなかった。

それでも37度6分以上、弊社の出勤停止基準となる微熱の日々はそこから1週間近く続いた。PCR検査も受けたが陰性だった。

コロナでなければ今までの休みは有給あるいは欠勤扱いになってしまう。そう聞かされた私は、翌月に控えた推しの誕生日に取っていた有給維持のため、ひたすら解熱剤を飲んで何とか翌週末には復帰した。

それでも平熱は37度2〜4分と微妙なラインを維持したままで、年末に至った。

年末年始はいつも忙しいが、昨年はとびきり忙しかった。

コロナのせい、というより1人しかいない私の同期が急病のため入院、彼女の分の案件は当然のように私に回ってきた。仕事の量だけならまだしも、何故か私の仕事に対する罵倒の量も倍になってストレスがとんでもねえことになっていた。

とんでもねえと自覚できたのは、欠かさずログインだけはしていたソシャゲにログイン出来なくなった、推しを見ようという気力が湧かなくなった、見たとしても、幸せより完璧な推しに対して劣等感を強く感じるようになったからだ。

何のために日々働き罵倒され機嫌を取っているのかマジで分からなくなってきていた。

決定打となったのは仕事納めの日に上司に「こんなミスするとかありえん、マジで殺そうかと思った」という趣旨のことを後輩の前で言われたことだと思う。

似たようなことを言われたことはあったが、ここまでハッキリ脅迫に近い言葉は初めてだった。ミスしたことを弁解するつもりはない。それでも言っていいことと悪いことがあると、その時言うべきだった。

もう少し私が元気なら、そう言って怒れていたかもしれない。

電車でキモいおっさんに触られて脛を蹴り飛ばしたり鳩尾に肘鉄を喰らわせたり、バス停で平気で順番抜かしをしてくるオバチャンに「順番くらい守れよ」とボヤくことができるくらいには私は自尊心のある人間だったからだ。

でもその日は刷り込まれた「申し訳ございません」の言葉を繰り返すしか私にはできなかった。

帰ってからはとりあえず、お風呂場に駆け込んでずっと泣いていた。人生最悪の年末だった。

年明け。申し訳程度の休みで出勤初日はなんとか耐えた。しかし退勤後、なぜか復帰初日に起きた同期のミスに関してまた私の監督不行届だという説教をされた。後輩の監督不行届はまだ分かるが同期の監督不行届とは何だ?????世界七不思議に追加すべき案件である。

キレた。

怒って泣いて喚いたわけではなく、プツッと感情の糸が切れた感覚だった。もうダメじゃない?何言っても何しても私ダメじゃん、となった。

翌日、出勤はしたが何故か涙が止まらなくなり、先輩に促されてそのまま帰った。

翌々日、出勤で使うバスの中で自分が今いる場所が分からなくなった。半分パニックで会社に電話して、そのまま帰るよう気遣われた。

そのまた翌日、雪がちらつく天候なのにコートを着ることも忘れて家を出た。母が気づいてくれたおかげで、そして「出勤する途中で死ぬんじゃないかと心配になってしまう」と言われて休んだ。

珍しいケースだと思うが、私は自分から心療内科に行きたい、と言った。

運良く近くの診療所で翌日予約が取れた。重度のうつ状態だった。医師から休職命令が出た。

休職初期は、推しについて考えることが完全になくなる日が続いた。

オタクではない人にとってはピンとこないかもしれないが、とんでもないことである。生きる理由の大半を占めて、支えてくれたものに興味が湧かなくなる。じゃあ何を考えるかというとガチで死について考えていた。実行に移すことはなかったが、それに近いことはした。

あれだけ「推しにお金を使いたい、だから働く!だから生きる!」と豪語していたはずが、いつの間にか理由に行動が追いつけなくなった。

食べることでなんとか発散していたはずが、食欲も驚くほど落ちて休職開始から結果8キロ痩せた。

仕事に行かなくなったからといって、良くなるわけではないのだと身をもって実感した。

それでも回復の道を教えてくれたのはやはり推しだった。私はうつを自覚してから、人の笑い声、人混み、電車が本当に無理だったのだが、ある日ツイッターで推しジャンルのイベントが告知された。

特急電車で20分ほど。職場に行くよりも短い距離だったが、その頃の私は家から徒歩15分圏内を歩き回るだけで精一杯だった。

それでもそのジャンルのイベントに参加したことがなかったということもあり、久しぶりにどこかに行きたい、という気持ちが芽生えた。そのおかげで、電車に乗れるようになった。

一度推しに触れることができるようになると、自然と別の推しに対してもこれまでに近い、純粋にすきだという気持ちで見ることができるようになった。

完全にエゴだが、嬉しくて泣いた。

推しに対するスタンスと同じように、オタクの友人とも少し距離を置いていた。コロナのせいで1年以上会えていない、だいすきなオタクと前から約束していた通話をキャンセルしてもらったり、気持ちを整理し何度も推敲はした上で、絶縁される覚悟で手書きの重い手紙も書いた。それに対する彼女の優しい返事と、気遣いのプレゼントに嬉しくてまた泣いた。

冒頭で結論を出しているので分かりきったことであろうが、私はそうこうして何とか元気になりかけてきていて、仕事を辞める決心をした。

休んだって元の職場に戻ればぶり返す気しかしなかったし、大切な友人の言葉に救われ、推しを推すために自分が不健康になる必要はないと気づいたからだ。

私は推しが本当にすきだ。恋愛感情的にすきな子もいれば、おばあちゃんのようにただ見守りたい、孫のように愛している子もいる。どういうスタンスにせよ、素敵な推しには素敵な人と素敵な人生を歩んでほしい、そう本気で思っている。

でもそれには私自身が素敵に生きれるようにならないと意味がない。どんなに推しを愛していたって、私はマザーテレサガンジーではない。所詮私は私が幸せじゃないと、推しのことを気にかけることもできない、そんな自己中心的で平凡な人間なのだ。約2年の社会人生活で漸く分かった。遅い。けど、気づけたのだからそれでいい。

推しを推すために、という他己的でこの上なく利己的な理由のために私は仕事を辞めた。退職金の少なさにちょっと絶望してるが、推しを推す未来のための時間がこれから増えるのだと思えば御の字くらいにはいただけている。

推し、今日も生きてくれていてありがとう。サービス終了のお知らせを感じさせない新規絵をありがとう。

精一杯私は私を幸せにするから、その幸せを基盤に得たお金を感謝の気持ちを込めてお布施できるように頑張るから、これからもどうか、目いっぱい愛させて下さい。